天正元年(1573年)叡雅上人が遊行の砌、この附近に在った大杉の
霊異を感じて一庵を結び、杉本坊と称したのが創建の起因であると伝えられる。
その後、文禄二年(1593年)再び叡雅上人が留錫し堂宇を
興して青龍山西光院伝福寺と改め、本尊に不動明王を安置された。
中興開山第三世長雅上人寛永年間(1624年)に薬師堂表門、客殿などを建立し、繁栄の基礎を堅固にした。
この頃岩槻城主太田氏の家臣山崎橘安信が館をこの地に移し大檀那となり厚く信仰歸依され法隆をきわめた。
以来七堂伽藍を構え門前市をなし、時には徳川将軍日光社参の際には籠をとめ小休止するという。
境内は森寂に沈み、時季折々に草花咲みだれ、木々の間には石像、
銅像の仏達ち立ち並び信心深き老若男女の参詣がたえることがない。